公共図書館はなぜ直営が望ましいのか
地方自治体がどのような施設を作ろうと、違法でなければ、自由と言えば、自由である。そこの議会が承認すれば、ダメである理由は基本的にはない。そうでなければ、「自治体」とは言えない。もっとも、地方自治体が作る施設は、利益を得ることが目的ではないから、「出る」一方である。従って、税金を使って支出しても、もったいなくない施設を作らなければならない。
公共図書館はもったいない施設か? 確かに公共図書館を建設・運営するには多額の費用がかかる。何より、毎年毎年、新しい本を買わなければならない。そうして、貸出しやレファレンスというサービスを実施している以上、単に部屋を貸したりしている施設より多くの人件費が必要となる。
さらに、公共図書館というものには、それを目的とした直接的な補助金がない。図書館を作りたくてもなかなか作れないという面もある。
そういうこともあって、とくに、財政の苦しい自治体の公共図書館は、一般的に、極めて低調である。これほど如実に、自治体の豊かさを示す施設もないかもしれない。同じ日本国民でありながら、こんなに格差があっていいのだろうかと思う。
貧乏な人たち、貧乏な自治体は何をすべきか? 答えは自明だ。お金を稼がなければならない。公共図書館はお金を稼がない。だから、後回しだ。そうして、ずっと、後回しなのだろう。
ところで、お金を稼ぐためには何が必要なのだろうか? 夜もろくに寝ないで働くことだろうか? 一所懸命やれば報われるというのは、誰でも信じたいところだ。エジソンの言う通り、確かに99%は努力かもしれない。
世の中の大半のものは、98%もできれば上出来だ。正規分布するものは、だいたい平均から標準偏差の2倍の範囲内に98%が収まると言う。それなら、あと1%加えて、99%の努力をすればいいではないか。そうして、みんな必死に努力している。そうして、100%までさらにあと1%のことを行っていない。成功というものは、99%できればよいというものではないにも関わらず。99%までは、実は、大半の人が、やろうと思えばできるのだ。
平均から標準偏差の範囲内の68%は、うん、まあ、普通だねと言ってもらえる程度。そして、2倍の範囲内である98%は、いいねと言ってもらえる程度。それだけでは、実はとっても足りないのだ。もう1%努力して、99%努力しても、まだ、足りない。100%努力したって成功しない。最後、いや最初の残る1%はひらめきなのだ。
「ひらめき」はどうして生まれるのだろうか? それが、ただ単に考えているだけで生まれてくると思う人は、無から有が生まれる、生命のないところから生命が生まれると考えるようなものだ。
「ひらめき」は知識の蓄積から生まれる。なぜかと言うと、知識とは「ひらめき」を検証し実践して、確実になったもののことを言うからだ。実は、知識ももともとは「ひらめき」に過ぎない。そして、知識の集積なしには、その「ひらめき」すら生まれない。もっと言うと、「ひらめき」とは、知識の集積を、今までとは違った見方で見て、その知識の集積にはないものと結びつけたり、知識の集積の内部での新たな結びつきを発見したりすること、つまり、「総合する」ということから出てくることなのだ。「創造」の前には「総合」がある。たとえば、平均律を確立したバッハや、解析幾何学を考えたデカルトなど典型だろう。「ひらめき」は着火のようなもので、知識の蓄積は「熾火」のようなものである。これは、知的な思考をせず、単なる作業や手続きを仕事と思っている人には決して理解できないことだ。実は、99%の努力とは、この1%の「ひらめき」を検証し、実践することなのだ。お仕着せのフォーマットに夜遅くまで文字や数字を埋め込む作業のことではない。
貧乏な自治体ほど、公共図書館を真剣に始めなければ、いつまで経っても貧乏だ。人は学習し知識を蓄積し、それを自分のものとした中から新たなものを創造しない限り、貧乏のままだ。豊かさというものは、単なる「コピペ」や反復動作のようなものからは生まれない。