これが、私が公共図書館を直営でやるべきだと考える理由だ。つまり、公共図書館に金をかけることは「もったいなくない」ことであり、価値のあることだからだ。今、公共図書館の運営を委託したり指定管理にしたりするのは、実際には、コスト面の理由がほとんどである。内容的にサービスを上げることではなく、開館日や開館時間の延長のみをサービス向上としている。開館日や開館時間を無理して伸ばさなくても、そもそも、いろいろなところで本を借りられるようにすれば、借りてきてゆっくり読めばよいのだから、実はそんなに大きな問題ではない。ただし、それなりの分館を整備するのは金がかかるので、一定規模の分館が未整備の自治体は非常に多いのが現実だ。とにかく、確保しなければならない時間は借りにくる時間である。土日や平日夜間は当然開かなければならないが、それは無制限に開いていればいいということではなくて、働いている人が来ることができる時間に開いているということがあればよいのである。2週間ほどの間のうち、土日も平日の夜も一度も図書館に行く機会がないほど定常的に残業をやらせる企業というのは、そちらの方に問題があるのではないかと思う。もっとも、自営業の場合は来られないという人もいるかもしれないので、週に1度くらいは夜遅い時間まで開館してもよいかもしれない。そうでなくても、たいがいの図書館はカードを持参すれば、代理の貸出しも認めている。また、本をネットで予約しておいて、借りるのは、専用のコーナーでセルフ・サービスということも、それなりのコストはかかるがこれからは考えられる。そういうイノベーションの方がより重要である。
公共図書館を直営でやるメリットは何か? それは単純に言えば、「費用をかけて」司書を雇い、その司書が経験を積み、学習し価値を増やしていくということである。本当に努力する司書は利息がつくのである。そうして、よい司書がいれば、本のコレクションを発展させ、そのまち・むらが発展していくように努力してくれるだろう。
逆に言えば、そうでない司書は、極めて、期待はずれの司書と言える。その場合、自治体は司書など雇うのではなかった、委託か指定管理にすればよかったと思うだろう。
学ばない司書も、学ばない自治体も滅ぶのである。そもそも、「自治」という言葉の本質的な意味を考えれば、自分で考え自分で実行するということである。考えるためには図書館は必須である。何も材料がないところで考えていても、それは、単なる妄想に過ぎない。そういう意味では、公共図書館とは、自治の核となる機関なのだ。本来は住民も含めた自治体のブレインにならなければならない。シンクタンクやコンサルタントに多額の費用を払うより、自らブレインを持つべきである。
法律的には、公共図書館は教育機関であるので、こういう位置づけにピンと来ない人もいるかもしれないが、教育機関とは学校がすべてではない。学校と違って、公共図書館は、住民が自ら学び自ら知るためにある機関である。これが実現しなければ、そもそも、自治も民主主義も実現しない。そういう意味では、単なる行政サービス以上の意味、つまり、政治の根幹に関わる意味がある。衆愚政治に陥らないためには、どうしても、質の高い公共図書館が必要なのだ。公共図書館は地域の未来のための投資なのである。実際に、長いこと公共図書館を冷遇していた地域の実態はかなり惨めなものである。1970年代から1990年代、全国の心ある自治体は公共図書館を充実してきたが、そうでないところとの差が、今、出てきている。
ところで、本当は法律を素直に読めば、公共図書館は直営が前提である。地方教育行政の組織及び運営に関する法律では、34条で、特別な場合以外、教育機関の職員は教育委員会が任命することになっている。この特別な場合とは、同法37条と38条に定められる県費負担教職員(市町村立学校の先生を県教委が任命するということ)のことである。それからすると、指定管理者の館長や民間委託のスタッフを教育委員会が任命するということはありえないのではないか。少なくとも、館長と窓口で住民と接して図書館サービスを提供している職員つまり司書は本来、自治体の職員でないと矛盾する。間接的な業務、例えば、予約の本の配送作業やその周辺の作業、返却ポストの処理、指示された本の書庫出納作業等は委託できるだろうが、レファレンス窓口まで委託するのは明らかに行き過ぎである。
公共図書館に金をかけないことが自治体のためなのではなく、公共図書館に「投資」することが、自治体の未来のためなのだ。そこの選択を誤ったら、もう、日本の未来はないだろう。世界の状況に目を向ければ、自ずと明らかなことである。(山重壮一)