実際、この先生の言うことは正しくて、高校で、京都・奈良方面に修学旅行に行ったときは、私は、古代日本の遷都のあとを友人と自転車で回ってレポートにした。学校図書館で借りた本や、書店で購入した本を参考にしてレポートを書いたが、たぶん、中学の時だったら、難しくて内容がよくわからなかったと思う。中学の時は、中学の時で、やはり本を読んでレポートを書いたが、歴史のように体系だった知識が必要なものではなかった(長崎の路面電車について書いた)。
やっぱり、常識的な知識というのは、ある程度、体系だって教えてもらわないとなかなかわからない。だから、「学校」というものがあるのだ。教育や学習は図書館や博物館だけでできるものではない。しかし、日本には、実は、ちゃんと学校教育を受けたといえる人は意外と多くない。こんなに学校が普及している国で何を言うかと思われるかもしれないが、まず、戦争前後の世代は、勤労奉仕だの軍事教練だのばかりさせられていて、教わることも、修身だの行儀作法だのも多く、いわゆる科学的なことは十分に教育を受けていない人がたくさんいる。また、とくに、外国に関する知識は乏しい。
戦後は戦後で、墨塗りばかりの教科書を見せられた世代もいるだろうし、過度の大学受験対応で、「その科目はまったく習っていない」なんていう人も結構いる。さらに、校内暴力やいじめで勉強どころじゃないとか、不登校だとか、「ゆとり教育」でスカスカの教科書しか見てないとか、実際には、あまり勉強していない実態を示す例はきりがない。
外国の人は、意外と日本の歴史を知っている人もいるので、観光客の心配よりも、同じ国民が博物館の展示を見て、十分、理解できるか、とくに地元の人が理解できるかということの方が問題だと思う。すると、学校教育の欠を補う意味での社会教育、学び直しの機会を提供する社会教育というのがかなり重要だと思う。これは、学芸員というより、図書館の司書とか公民館主事の仕事じゃないかと思う。もしかしたら、図書館のわれわれの努力が足りないために、学芸員があらぬ誹謗中傷を受けているということなのかもしれない。
しかし、住民に学びなおしの機会を提供するとなると、少なくとも、図書館の蔵書は相当多くないと難しい。基本的なことがらだけを集めればいいのだから、そんなに本は要らないだろうと言う人もいるだろうが、様々なタイプの人にわかりやすく書かれた本を選書するとなると、結構な仕事である。学芸員をがん呼ばわりするより先に、国民の教育水準を上げるために、図書館の資料費ももっと政策的に投入してほしい。(山重壮一)